全米放送事業者協会(NAB)が主催する「NAB Show」は、1923年の初開催から100年以上の歴史を持つ、世界最大規模の放送・メディア・テクノロジー見本市です。1956年に世界初の商用ビデオテープレコーダー(VTR)が発表されて以来、アナログからデジタル・HD化への移行など、常に放送・メディア史の技術的ブレイクスルーを牽引してきました。
近年、放送業界はIP化、クラウド化、そしてAIの急速な進化によって大きな変革期を迎えています。2025年の来場者数は55,000人を記録し、ハードウェアからソフトウェアへの移行が鮮明になりました。続く2026年には世界146ヶ国から58,000人以上が集結し、参加者の約半数が初参加となるなど、従来の放送局関係者から企業メディアやクリエイター層へとターゲットが大きく拡大しています。
多くの来場者で賑わうNAB Show 2026会場
現在の業界における喫緊の課題は、専用ハードウェアからの脱却と、汎用ITインフラ上でのソフトウェア定義によるシステム構築、そしてAIによるコンテンツの多言語展開・アクセシビリティの向上です。今回では、ハードウェアからSaaS * への移行が本格化する最新トレンドと、各社の具体的なアプローチを紐解いていきます。
💡SaaS (Software as a Service):
ソフトウェアをパッケージとして購入するのではなく、クラウド上のサービスとして必要な分だけインターネット経由で利用する提供形態。
トレンド①:ハードウェア依存からの脱却と、放送インフラのクラウドネイティブ化
従来の放送インフラは高価な専用ハードウェアに強く依存していましたが、IP化の進展により、ソフトウェア定義による柔軟なシステム構築への移行が加速しています。
■各ベンダーのSaaS・クラウド移行アプローチ
既存の放送ワークフローとの親和性を活かし、ファイルベースワークフローの自動化とクラウド移行を推進するのがTelestreamです。また、Harmonicはスケーラビリティと効率性を重視し、ライブ配信・プレイアウトのクラウドSaaS化を展開しています。Grass Valleyは「AMPP」プラットフォームを通じて、従来の幅広い放送ワークフローをクラウドで統合し、ハイブリッド運用を可能にしています。
Grass Valleyは「Anywhere, Any Workflow(あらゆる場所で、あらゆるワークフローを)」を掲げ、同社のクラウド制作プラットフォーム「AMPP」をアピール。
■Matrox Video「ORIGIN」が示す特異点と基盤の再定義
これら既存ワークフローのSaaS移植とは一線を画すのが、Matrox Videoの非同期メディアフレームワーク「ORIGIN」です。ORIGINは、AWSのストレージやEC2といったインフラサービスを部品として利用しつつ、ルーティングやリアルタイム処理といった放送ハードウェアの中核機能をソフトウェアとして再定義します。
特筆すべきは、ORIGINがAWS FTR * を完了している点です。これにより、厳格なセキュリティと信頼性に準拠していることが証明され、放送局のクラウド導入に対する信頼感が飛躍的に向上しています。放送インフラそのものをクラウドネイティブな思想で根本から再構築することで、比類ないスケーラビリティと冗長性を汎用ITインフラ上で実現します。
MatroxはST2110 / IPMX対応製品やソフトウェア定義開発基盤のMatrox ORIGINをアピール。
💡AWS FTR (Foundational Technical Review):
AWSがパートナー企業のソフトウェアやソリューションに対し、セキュリティ、信頼性、運用上の優秀性などのベストプラクティスを満たしているかを検証する厳格な技術レビュー。
トレンド②:IPMXとST 2110による「放送とプロAVのシームレスな統合」
クラウド化と並行して、現場の物理インフラにおいても、放送規格であるSMPTE ST 2110 *と、プロAV向けオープンIP規格「IPMX *」の統合が進んでいます。
■PlexusAV(SencoreプロAV部門)
公式IPMX認証を取得したハードウェア「P-AVN-CL100 (ChargeLink)」は、ネットワーク接続、USBデータ転送、ビデオ共有、最大100Wの電力供給をUSB-Cケーブル1本で完結させます。会議室やスタジオの配線を極限まで簡素化し、ベンダーロックインを排除するオープンなエコシステムを提案しています。さらに、NMOS(*6)対応の天井埋込型スピーカー「P-ANS-6CWシリーズ」によって、映像と同じ管理系統でオーディオを統合的にルーティング可能にしました。
SencoreのプロAV部門であるPlexusAVは、「オープン標準への完全準拠」と「AVと放送の橋渡し」をテーマに、IPMXベースの最新エコシステムを披露。
💡SMPTE ST 2110:
映像、音声(AES67対応)、メタデータを1つの信号にまとめず、独立したストリームとしてIPネットワーク上で非圧縮伝送する放送業界向けの厳格な基盤規格。
💡IPMX (Internet Protocol Media Experience):
AIMSが推進するPro AV市場向けのオープンIP規格。ST 2110をベースにしつつ、一般的なITネットワーク(1GbEなど)でも運用しやすく拡張された標準仕様。
💡NMOS (Networked Media Open Specifications):
IPネットワーク上でメディア機器を自動的に検出し、映像や音声のルーティングを管理・制御するための仕様。
トレンド③:AI自律運用がもたらす「無人化とバーチャル空間の高度化」
AIは補助的なツールから、カメラ制御や映像合成の自律的なオーケストレーターへと進化しています。
■OBSBOT と Unilumin
OBSBOTが発表したAI搭載PTRZカメラ「Tail 2」は、トラッキングデータ通信「FreeDプロトコル(*7)」にネイティブ対応し、Unreal Engine 5などの仮想空間と物理カメラの動きをリアルタイムで連動させます。これを、Uniluminの15,000Hz超高リフレッシュレートを誇るバーチャルプロダクション特化型LEDウォール「Upad IV VP」と組み合わせることで、カメラマン不要の自律型バーチャルスタジオが構築可能です。
OBSBOTは、これまでの「コンシューマー向けの賢いAIウェブカメラ」という枠を超え、「放送局やバーチャルプロダクションで実用的に使えるAI自動化インフラ」へと劇的な進化を遂げたことをアピール。
■Vizrt
専用のグリーンバックや複雑な照明を必要とせず、物理オブジェクト(マイクや演台など)を保持したまま人物を切り抜く「Vizrt AI Keyer」を披露し、あらゆる場所を瞬時にバーチャルスタジオ化するソリューションとして注目を集めました。
💡 FreeDプロトコル:
カメラのパン、チルト、ズーム、フォーカスなどの物理的なトラッキングデータを、リアルタイムでバーチャル制作システム(Unreal Engineなど)へ送信するための業界標準通信プロトコル。
トレンド④:文字起こしから「音声クローン」へ。AI多言語展開の劇的進化
NAB 2025から2026にかけての最も顕著な進化の一つが、AIを活用したリアルタイム翻訳と、「音声クローン * 」によるダビング技術の実用化です。数秒の低遅延で、オリジナルの声質や感情を保ったまま多言語展開が可能になっています。
■Voice Cloning(音声クローン)と感情AIの台頭
Deepdub (Live)は、オリジナルの話者の声をAIでクローンする機能や、独自のエンジンで声のトーンや感情のニュアンスを動的に調整する「感情AIダビング」を発表し、ライブスポーツや速報ニュースでの活用を提案しています。また、Lingopalは、既存のコメンテーターの声をクローンし、3秒以下の超低遅延でリアルタイムAI翻訳を生成するソリューションで注目を集めました。
■放送機器ベンダーと専門AIの連携
Harmonicは専門AIベンダーCAMB.AIとの連携に加え、自社のSaaSソリューション(VOS360)内で音声クローンやオーバーダビング機能を直接サポートしています。Grass Valleyも「AMPP」上で外部AI翻訳サービス(Vidbyなど)と連携し、リップシンク機能を備えた高度な翻訳ワークフローを構築しています。
💡 音声クローン(Voice Cloning):
特定の人物の声をAIに学習させ、テキストデータから本人の声質、抑揚、特徴を忠実に再現した合成音声を生成する技術。
日本の放送業界における現状と今後の展望
これまでカメラやデバイス等のハードウェアへの関心が高かった日本の放送業界でも、IP化、クラウド化、AIの活用を通じた「ソリューション全体の変革」への意識が急速に高まっています。IP伝送の標準として採用が進むSRTプロトコルにおいても、機器間の相性問題など実践的な課題に直面する中、インフラの根本的な見直しが迫られています。
特に、音声クローン技術の実用化は、グローバルなコンテンツ展開やコスト削減を目指す放送局にとって強力な武器となります。Matrox ORIGINのような「基盤」レベルのソリューションは、日本企業が中長期的な視点でIPベースの次世代放送インフラを構築する際の重要な選択肢となるでしょう。
映像や空間演出を手掛けるプロデューサー兼ディレクター。
ProAV Picksでは各種展示会や製品情報のレポートを中心に紹介。